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出水の植木は、福岡県の田主丸とならんで、九州の植木産地にあげられています。植木は高速道路のグリーンベルト用、公園用、街路樹、住宅団地やホテルなどの庭園用などとして、北九州や東京、大阪方面に出荷しています。
また10月〜5月の2の付く日に当組合が主催する「植木市場」が開催されます。
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<主な取扱樹種>
イヌマキ、ラカンマキ
クス、ヤマモモ
ハマヒサカキ、サツキ
ナンキンハゼ、吉野桜
イチョウ、モチノキなど
※その他にも数多く取扱っております。
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出水市は、鹿児島県の北西部に位置し、陸の三方を阿久根市、薩摩川内市、さつま町、大口市および熊本県水俣市に接し、北西は八代海(不知火海)にのぞむ、人口は約58,000人、面積330.06平方キロメートルの田園都市です。また、特別天然記念物「ツル」の来る町、としてその名を全国に知れらています。平成18年3月13日に出水市、高尾野町、野田町が合併して現在に至っている。
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現在、十月から五月までの毎月「二日」・「十二日」・「二十二日」に出水市平和町で植木市場が開く。市は遠方からの客も含め、多くの人々で賑わう。
大正四年(1915)三月五日に発行された「出水風土誌」には、苗木に関する記述は見当たらない。また、出水郡役所が大正五年五月に発行した「出水郡統計書」(出水市・阿久根市・高尾野町・東町・長島町・野田町に関する統計書)にもその記載はない。ところが、後年の大正十二年(1923)十二月十日、出水郡役所が発行した「鹿児島県出水郡誌」には「苗木改良」と題して次のような事項が記されている。
<本郡内苗木の養成は逐年盛大となり・・・中略・・・苗木の不揃其の他栽培一定ざる等遺憾とする点枚挙に遑あらず且つ販売に際しても区々たる行動に出づる結果常に奸商に乗せられ不利益の状態に在るを認むる処なりとす・・・中略・・・将来苗木の改善営業上の弊害を矯正する等需給相互の便益を講するは時機に適したる措置と認め郡に於て奨励の結果大正八年中郡内同業者に於て出水郡苗木同業組合を組織したるを似て樹苗養成奨励の為め大正九年に於て同組合品評会の内に金弐百円の郡費補助を為したり>
簡単に言えば、
「出水郡内では苗木の生産は年々盛んになった。
苗木の大きさが揃っていなかったり、栽培が一定でなかったりなど残念なことがあまりにも多くていちいち数え切れない。また、販売面でも個々に行なった結果、悪徳商売人の口車に乗せられて不利益を被っていた。
このような弊害を改める時機と考え、郡も奨励した結果、大正八年中に郡内の同業者で出水郡同業組合を設立したので、その奨励のため大正九年度に品評会の席で二〇〇円郡から補助した」ということである。
更に、同誌には大正十二年十二月現在における出水町の造林用苗木の生産状況について次のような記録が見られる。
苗圃面積四万三一四六坪に、三六四万三〇〇〇本・松三一九万九〇〇〇本・樟二八万三〇〇〇本・杉二四万八〇〇〇本などが植えられている。
オレンジ鉄道西出水駅から高尾野駅にかけての車窓は、植木が林立し、その産地ぶりがよく分かる。これは出水だけではなく、高尾野町も植木・苗木の生産地であることを物語っている。その高尾野町内、出水市に近接している場所に「出水苗木発祥之碑」が建っている。
この碑は昭和五十八年六月十三日建立されたものである。碑には次のようなことが刻まれている。
出水苗木の沿革
苗木の生産は明治三十五年ごろに初代の先駆者によって初められ(「始められ」のまちがい)幾多の歴史を創りながら今日に至る。
先駆者
前田次郎助
松本半兵衛
池田光太郎
山内重吉
高橋熊市
初代接木指導者
古賀新三郎
作付方法
一.鍬づけ
二.一ケイに八本〜十本植
三.畦巾 五尺
また、先の「鹿児島農業の構造」には「大野原集落は明治三十年ころより天草の移住者が多く、裸一貫でここに移住し、この一帯を開墾し、あるいは小作農として住み込み、爪に灯りをともすような生活を続けて来た。何か新しい経営に活路を見出そうと苦心惨憺たる状況であった。数名はその打開策として苗木栽植を思い立ち、その技術を田主丸、久留米近郊から導入し、大野原の原野にはじめた」と記されている。
このようなことから、明治三十五年(1902)ころには樹苗の生産が始まり、概ね十七年後の大正八年には共同組合を組織するくらいまで発展したのである。
さて、戦後以降に目を移そう。「出水町経済の実態」には、昭和二十四年(1949)度の出水町の苗木生産について「造林原料としての樹苗は、県下の雄であることは、自他ともに認めるところである」とあり、その実態を「林産物総生産額は一億二二九八万円である。そのうち樹苗は一一二二万円で、うち一〇八五万円は移出額である」としている。ちなみに、最も多いのは木材で生産額にして五七六〇万円、移出額にて四〇三〇万円であった。
昭和三十二年(1957)ごろには、樹苗生産は県内の三分の一に達していた。約一九〇人の生産者が松(四五五万本)、ヒノキ(四三九万本)、杉(一八九万本)など生産していた。昭和二十八年以来、全国種苗共進会で一位・二位入賞を果たし、品質の良さは全国的に有名だった。また、イヌマキ・オウゴンヒバ・ユーカリ・フェニックスなども栽培されていた。
昭和三十一年二月二十日から1ヶ月間、春の緑化運動が展開された。この運動は荒廃して地肌をむき出しにした国土を緑化して、災害を防ぎ森林資源を豊かにするとともに、発電・灌漑等の用水を確保する目的であった。
出水市は出水苗木が山林造成事業に果たす役割が大きいと判断して、昭和三十一年(1956)、春の緑化運動の一大行事として、「出水苗木まつり」を開催することとした。まつりでは同年三月1日から5日間、苗木市を中心としたものであった。
昭和四十四年(1969)ごろの樹苗生産床面積は約一〇〇ヘクタール、ヒノキが主となっていた。価格は二〜三年生ものが1本当たり約八円で取引されていた。問題も待ち受けていた。苗木の生産量としては西日本ではトップクラスであったが、外材の増加により造林意欲が低下したうえに、各県が苗木の自給自足体制を採り始めた、需要が伸び悩んだ。植林時期を外れて苗床に残ったり、不良品や等外品の処理に困り、大量に焼き捨てる生産者も現れるなど大きい被害を受けた。
一方では、公害問題から環境緑化の傾向が高まり、庭園樹や街路樹など植木の需要が高まってきた。このような情勢に対して、苗木だけではなく植木まで生産範囲を広げようと意欲が高まった。生産者たちは、共同して生産・販売体制を整備、生産の向上を図り造園木の供給基地を目指すことにした。
昭和四十六年(1971)六月九日「出水市植木組合」を結成した。参加組合員は八十二人、初代の組合長に山本武充を選出。組合の目標を「大手企業や大手造園業者と契約を締結し、委託事業を大幅に取り入れる」とした。そして、この目標達成のため「生産増大を図るため、休耕田を利用する」「品質向上のため、共同で育苗ハウスや養苗地を設置する」「稚苗の購入・出荷はすべて共同で行い、販売センターを設置する」「委託事業推進のため、講習会・研修会を行う」などの事業計画を決定した。その後、組合は昭和四十八年(1973)には圃場に植えたままで売買する「圃場花木せり市」を二日間開き、二千万円近くの売り上げをみた。
翌年にかけて、苗中心から庭園樹に切り替えを考える生産者が増加した。当時、ヒノキ二年生一本当たり約一四円であったが、苗種法の制定(昭和四十五年)により、出水地方の苗木は九州以外には出荷できなくなっていた。このため注文が減り、前年に比べ約三割の減産となった。
出水市植木組合は昭和四十九年(1974)十一月二日、初めて市場を開いた。この日は県内外から約一六〇人がおよそ三万本の植木を持ち寄り、約3百人の市民が競り合った。ツツジやモチノキなど次々に落札され、約一〇〇〇万円の取引があった。以後「二」の付く日に市場が開かれるようになった。
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